2019年3月26日(続き)

3月22日(金)の『ゴーストドラム』『ゴーストソング』『ゴーストダンス』をめぐる対談で、深緑さんに、「3部を通じてクズマが出てくるなんて、作者はクズマが好きなんでしょうね」と指摘されて、はっとした。『ゴーストドラム』しか読んでいないと、クズマは単なる敵役としか思えないのだが、じつはチンギスよりずっと陰影の深い人物で、第2部『ゴーストソング』の後ろのほうでは、思いがけない素顔をのぞかせる。そしてそれがそのまま次の『ゴーストダンス』につながっていく。たしかに、作者はクズマに思い入れがあるらしい。
先日、ニール・ゲイマンの『北欧神話』の感想を送ってくださった方が、今度は、『ゴーストソング』の第1章だけを読んでの感想を送ってくださった。これがまた、はっとさせられる感想だった。ある意味、この物語の展開を見事に予想した感想でもあって、怖いなと思ってしまった。
というわけで、ちょっと読んでみてください。ご本人のOKはいただいてます。


なんて残酷な話なんだろうと思いました。
スーザン・プライスの物語がとても残酷なのは、金原さんもよく指摘していらっしゃいますし、なにせ前編の『ゴーストドラム』では、メインキャラクターが軒並み血みどろの死に方をしているので、なにを今さらと思われるかもしれませんが、私が今回、『ゴーストソング』の第一章から感じ取った残酷さは、そうした種類のものではありません。まるで対照的に見える二人、この地のすべてを所有する冷酷な皇帝と、貧しくて愛情深い猟師のマリュータが、本質的には同じであると容赦なく暴いていることの残酷さです。
『ゴーストドラム』の訳者あとがきで、『ゴーストソング』のあらすじを知ったとき、クズマの弟子となるはずだった子どもは、両親に深く愛されていたのだなと思いました。けれど、第一章を読んでみたら、物語は私が想像したよりはるかに残酷でした。マリュータは子どもを愛していたのではなく、子どもを所有したかっただけだったのです。皇帝がなぜ毛皮を欲するのかについて、物語にはこうあります。
「皇帝がそういった毛皮を欲するのは、そういった毛皮を身にまとうと、本物の皇帝になったような気になれるからだ。そしてそういった毛皮を臣下に与えてやれば、本物の皇帝だと思ってもらえるからだった。」
この文章の「毛皮」を「子ども」(あるいは「家族」)に置き換えてみると、これはそのままマリュータについて述べた文章にならないでしょうか。
「マリュータがそういった子どもを欲するのは、そういった子どもを手に入れると、本物のこの村の一員になったような気になれるからだ。そしてそういった子どもを村の男たちに見せてやれば、本物のこの村の一員だと思ってもらえるからだった。」
もとの文章からすると、皇帝は毛皮そのものを欲しているのではありません。皇帝が欲しいのは、毛皮が自分に約束してくれる、皇帝としての権威です。それと同じように、マリュータが欲しているのも、子どもそのものではなく、子どもの存在が自分に約束してくれる、「この村の一員」=「一人前の男」という権威なのではないでしょうか。マリュータの息子が生まれるのを待つ村の男たちの描写や、「狩人に妻がいなくてどうする」といったマリュータのつぶやきから、そんなことを思いました。
クズマに「皇帝になりたいのか?」と問われたマリュータが、結局息子を手渡すことを拒んだ理由は、「夢の強い香りが立ちこめて」いたからです。裏を返せば、これが夢でないことが確実だったなら、彼はすべてを所有する皇帝になりたかったのでしょう。でなければ、クズマの問いかけに、あんなに動揺しないはずです。
「奴隷が自分のものといえるのは、子どもだけなのだから」
「これはおれの息子だ」
 と、たびたびマリュータは、子どもが「自分のもの」であることを強調しますが、『ゴーストドラム』のチンギスの生みの母は、「この赤ん坊はわたしのものではないのです。……この子もわたしも夫も、みんなガイドン皇帝のものなのです」と言っています。それどころか、「自分の身さえ自分のものでない」とさえ口にしています。
(彼女が「夫の家族といっしょに」住んでいた、と書かれているのも象徴的です。ただ「家族といっしょに」、または「自分の家族と」でもいいところを、わざわざ「夫の家族といっしょに」と書いてあるんですよね。このあたりからも、彼女は皇帝のものである以前に、夫(の家族)のものなのかも……?という感じがします)
魔法使いの老婆も、「母と娘というものは他人同士のようなもの」と言っていて、マリュータとは対照的ですね。「父と息子」だと話がちがってくるということでしょうか。しかし、本当のところ、クズマの言うように、「われわれから生まれた子どもは、われわれのものではない」のです。
本当のところというか、私が個人的にこの点でクズマと同じ意見だというだけですが。サウザンブックスのウェブサイトで、金原さんがちょっとだけ紹介してくださっているその後のあらすじを拝読すると、「自分の子ども」という血のつながりには無頓着なクズマも、「自分の弟子」という運命のつながりには心をとらわれるのかな?という気がしています。まだぜんぜんわかりませんが。
でも、『ゴーストドラム』のチンギスは、それにさえ心をとらわれなかったんですよね。血のつながりも運命のつながりもないサファを、自分の心ひとつで弟子に選ぶんですよね。サファは覚えが悪くて、弟子としてはぜんぜんうまくいってないのに、それでもチンギスはなんだか幸せそうに生きていくんですよね。それは、チンギスが弟子のことを、マリュータよりクズマよりさらに徹底的に、「自分のもの」だと思っていないからかもしれません。
これとは関係ないのですが、いろいろな細かい描写がとても好きでした。
夏至の日の夜のできごとを描いた部分なので、「深夜の強烈な白い光」や「真夜中の陽光」といった、それだけでもぞくぞくする単語が頻出するのですが、「マリュータは、暑い闇にたずねた。」とか、たまらないです。
たずねる相手が、人でなくて「闇」であることで、相手の姿かたちがよく見えないどころか、人間なのかどうかも定かでなくて、自分の声がどこにも届かず、闇に吸われて消えてしまいそうな頼りなさがありますし、「暑い」闇には、ただの「闇」にはない湿度と気配と肌を圧してくる重さのようなものがあって、闇の体温と呼吸音まで聞こえてきそうで、ぐっときます


とまあ、こんな感想を読んで、あ、そうか、『ゴーストドラム』って、そういう話だったんだと、納得してしまいました。訳者、形無しです。
それにしても、クズマ、おもしろい人物です。
『ゴーストソング』の第1章はこちらを。
https://greenfunding.jp/thousandsofbooks/projects/2652/activities/7463



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